上三川町の名所・文化
先人の足跡をたどる
上三川町では、近年の発掘調査で旧石器時代や縄文時代の遺跡が確認されており、かなり古くから人々が生活していたことがわかっています。古墳時代には、前方後円墳や大型円墳、方墳が数多く造られるなど、 古代から河内郡の中心として一早く栄えていたことがうかがえます。上三川の地名も、当時の河内郡内にあった三川郷に由来するものといわれています。
城跡・ 遺跡
多功城跡
多功城は1248年に宇都宮氏一族の多功宗朝によって建てられた城で、上三川城とともに宇都宮氏領域の南の要として、宇都宮氏が改易された1597年の廃城まで続きました。現在は本丸跡の土塁や堀の一部が残ります。なお、多功氏は代々武勇に優れ、多くの戦いで活躍しましたが、特に戦国大名として著名な上杉謙信や北条氏政の軍勢を破ったことでも知られています。
所在地 | 上三川町多功 |
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上三川城跡(上三川城址公園)
上三川城は1249年に建てられた城です。宇都宮氏の領域の南の要として大きな役目を持ち、1597年に落城するまでの約350年間続きました。現在は公園として、町民の憩いの場となっています。
所在地 | 上三川町上三川 |
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電話番号 | 0285-56-9146 |
神社
白鷺神社
市街地の側にありながら、静かなたたずまいを見せる白鷺神社は1000年以上前に創建したといわれています。神社の西側には今は採掘禁止となっている日光石で作られた鳥居があり、町指定の文化財となっています。1380年に小山義政が上三川城を攻めたときに、白鷺神社の森より“白鷺”の群れが現れ、大軍と間違えた小山勢が退却したとの話が伝わっています。
所在地 | 上三川町しらさぎ1-41-6 |
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電話番号 | 0285-56-4553 |
アクセス | JR「石橋駅」から車で10分 |
関連サイト | 白鷺神社WEBサイト |
国指定史跡上神主・茂原官衙遺跡
上神主・茂原官衙遺跡は、奈良時代を中心とした河内郡の役所跡で、長年にわたる発掘調査の結果、中心部に政庁、南側に正倉が発見され、正倉の中心にある大型瓦葺建物からは2,000点を超える人名文字瓦が出土しました。更に南東部には都と東北地方を結ぶ東山道が確認されるなど、他の遺跡にはない特徴を持つ貴重な遺跡であることから、平成15年に国史跡に指定されました。
所在地 | 上三川町上神主 |
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電話番号 | 0285-56-9159 |
上郷神社
この神社は、古くから近隣の信仰の対象となっています。今でも11月13日のお祭りには神楽が行われます。
所在地 | 上三川町上郷1518 |
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寺院
普門寺
普門寺は1473年に横田綱親によって建立された寺院です。上三川城の落城とともに一時衰退しますが、後に上三川を支配した烏山城主の成田泰親によって修繕され、現在に至ります。なお、江戸時代の初めに泰親が寄進したとされる駕籠は町指定文化財に、県指定文化財のイチョウはお葉付きの特徴が見られる珍しいものです。
所在地 | 上三川町大字上三川5117 |
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電話番号 | 0285-56-9159 |
満願寺
楼門や薬師堂は江戸時代に建立されたものですが、寺の歴史は古く平安時代には繁栄していたと考えられています。その証拠に寺には、県指定文化財の阿弥陀如来座像をはじめ平安時代から鎌倉時代の多くの仏像があり、当時は現在よりも大きな寺であったと考えられます。
所在地 | 上三川町東汗1105 |
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見性寺
見性寺は多功城主多功氏が建立した、多功城主多功家の菩提寺です。1597年の多功城廃城と多功家滅亡によって、寺領はすべて没収され、一時衰えますが、1604年に幕府より領地を与えられ、再興します。本堂の左手奥には町指定文化財多功城主多功家累代の墓があります。
所在地 | 上三川町多功1548 |
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宝光院
本尊の薬師如来坐像は秘仏となっているため見ることはできませんが、鎌倉時代の代表的な鉄仏です。この他にも平安時代中期の大きな板碑が保管されており、いずれも町指定文化財です。なお、周囲は江戸時代に関宿通多功道の宿場町として栄え、幕府が作成した絵図である五街道分間延絵図にも描かれています。
所在地 | 上三川町多功 |
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電話番号 | 0285-56-9159 |
郷土の偉人
科学的農業を開いた 田村仁左衛門吉茂
田村仁左衛門吉茂は、江戸時代も終わり頃の寛政2年(1790)河内郡下蒲生村(今の上三川町下蒲生)の代々名主をつとめる家に生まれました。子どもの頃からあまり勉強が好きではなかった吉茂でしたが、農業の仕事には一生懸命取り組みました。ある年、吉茂の家の苗代が猪に踏み荒らされ苗が足りなくなったことがありました。しかたなく残った苗を広い田に少しずつ植えて田植えを済ませました。ところが秋になると田村家の稲の実りは他の田よりずっとよかったのです。このことをきっかけに、吉茂は稲の薄植えが収穫を高めたのではないかと考え、少しでも収穫を高めようと作り方を研究しました。稲だけでなく、麦・大豆・あわ・サツマイモなどについても研究し、種の選び方、種まきの時期、肥料のやり方などについても本で調べたり、実験したりして確かめていきました。そして、これらのことを「農業自得」という一冊の本にまとめました。江戸時代の農業は技術があまり進んでいなかったため、冷夏、日でりなどの天候によって凶作になることが多かったのですが、この吉茂の教えのために近くの村ではひどい凶作にならないですんだということです。